朝の通勤電車に乗るのは、一体いつぶりだろう?
長男の妊娠に気づいたときに乗ったのが、そういえば最後だった。
満員電車に乗っているときに、耐え難い体調の悪さを感じたんだった。
妊娠をすると、身体が教えてくれる。
満員電車のなかで、ハードな工場派遣の現場のなかで。
身体が「今、それちょっと無理だよ」ときちんと教えてくれた。
だから、かなり早期に妊娠に気づくことができた。
そんな、久しぶりの通勤時間の電車。
大勢の通勤客の電車を待つ列に、並ぶ。
全然違うのに、私も通勤客の振りをしてみる。もちろん、誰も気づかないけれど気分が大切だ。
まだ9時前だから、ホームは通勤客であふれている。
行列の一番後ろから、電車に乗り込んだ。
車内は混み合っているけど、なんとかつり革に掴まれる余裕はある。
電車内で読むのを楽しみにしていた「ハサミ男」の文庫本を身体を折り畳みながら、バッグから取り出す。
まだ始めの方だけしか読めてないんだった。
さて、読もうと思うと目の前に座っている同世代のOLさんに目が留まる。
きれいにアイラインを引いた目をやさしく閉じて、気持ちよさそうに眠っている。ほんのり秋色の口紅がくっきりと塗られた唇が少し、開いていた。
心のなかでお疲れ様と思いながら、もう一度読もうと小説に目を落とすと左側のサラリーマンがやけに身体をくねくねと動かしている。
なにごとかと見てみると、足が異様に長い巨大な虫と格闘しているところだった。
いくらなんでも、足が長すぎる。
混雑している車内だが、その孤軍奮闘しているサラリーマンの周りはぽっかりと穴が空いたように隙間が開いていた。
まぁ、虫がこちらへ飛んできたら仕方がないなと思っていると、目の前が急に開けた。
遠くの街まで、よく見渡せる。
薄いブルーの空に、雲が薄く細いラインになって幾重にも重ねられている。
いつか上野の美術館で見た油絵のようだ、と思う。
流れる景色に見とれていると、大きな橋に差し掛かった。
川面が近く、きらきらきらきらきら光る水面が間近に流れる。
少しばかり、カモメになったような気分。
橋を渡ると、ビル群が増えてきた。
ビルの窓ガラスに朝の強い太陽の光が反射して、こちらまで届く。
ビルの狭間の道路には、通勤中の自動車が行儀よく整列している。電車のなかから見ると、自動車達は一瞬時間を止めているように見える。
と、電車の出入り口にもたれかかっているサラリーマンが文庫本を読んでいることに気が付いた。あの分厚さだと、おそらくは500ページはあるものだろう。本屋でカバーをかけてもらったのか、外装は確認することができない。
電車のなかで文庫本を読んでいる人がいると、何の本を読んでいるのかとても気になってしまうのだ。できればタイトルを確認したい、と思ってついちらちらと本に視線を送ってしまう。
肝心のハサミ男のストーリーを時折なぞるだけになって、あまり頭に入ってこないままそのサラリーマンの文庫本に意識は集中させていた。
ビジネス街の駅に到着し、乗客の半分ほどが下りていく。
目の前に座っていたお姉さんも俊敏に目を覚まし、トートバッグを肩にかけると勢いよく出口へ向かっていった。
少し、がらんとした寂しい空気の車内になり、私もお姉さんが座っていた席に腰を下ろした。おしりのところが、少し温い。
電車のなかでは、座っていないとスマホがいじれないタチなので(片手でスマホを持ち、もう片手でスマホ操作をするため)ここで、初めてスマホを開く。
Twitterをちらりと確認していると、電車が地下に潜ってしまった。
スマホが反応しなくなり、ケースをぱたんと閉じる。
のどが渇いてきたので、買っておいた午後の紅茶のミルクティーを一口だけ飲む。
電車に乗るときには、冷たいミルクティー。
なんとなく、縁起担ぎなのだ。
うきうきするときには、ミルクティーが飲みたくなる。
流れているコマーシャルや、中吊り広告に目をやる。
文庫本は結局ひざに置いたまま、それから乗客達をのんびりと眺める。
斜め向かいに50代後半と思われる恰幅の良いサラリーマンが、上を向いて大きな口を開けて眠っている。
あんまりにも気持ちよさそうで、思わず頬がゆるむ。
と、目の前を見ると
同い年くらいのサラリーマンが、こちらを見ていた。
目が合い、気まずくなり、慌てて膝の上の文庫本を開く。
にやにやキョロキョロとしているから、おそらく不審な乗客だと思われたのだろう。
まったく、久しぶりの電車に乗ると
見たいものが多くて、とても忙しい。
ハサミ男の正体は果たして誰なんだろう?
なぜ、先を越されてしまったんだろう?
頭の中が文庫本の世界に染まったころ、間もなく千石駅に到着するアナウンスが流れた。
続きは、帰りにゆっくり読むことにしよう。
目を上げると
目の前に座っていた人達は様変わりしていて、大きな袋を抱えた女性が疲れた顔をして眠っていた。