日曜日の、朝8時30分。
私は父と街一番の大きなショッピングビルの入り口の列に、並んでいた。開店前ですでに30人ほど並んでいて、私達は真ん中くらいに立っていた。
父は、眠そうにめんどくさそうに、ボンヤリと立っている。
「こんなに早く並ぶ必要無いんじゃないか?」
「ダメだよ。早く並ばなきゃ、絶対買えないんだ」
母が休日の早起きを辞退して、渋々父が朝早くから電車に乗って連いてきてくれた。
「オープンになったら、走るから。お父さんは、ゆっくり後から来てくれれば大丈夫だから」
その日、何度目かの話しをもう一度繰り返す。
デパートのオープンのチャイムと共に、列が一斉に動き出し、皆がエスカレーターに吸い寄せられていく。
私も遅れをとらないよう、小走りになる。
振り向くと父はもう、小さく見えていた。
流れに乗ってエスカレーターを上り、5階のおもちゃ売り場へと急行。人だかりのある一角へ私も辿り着く。目当ての色があるかを、ザッと確認すると、残念ながらもう見当たらなかった。
人だかりの中からせめてもと掴んだ、青のスケルトンのたまごっち。
たまごっちを掴んだ後は、その一角に人が流れ込んでくるのを一歩下がって見ていた。
ゆっくり歩いて来た父が
「あったのか?」
「ううん、白と黄色のやつがもう無かった」
「その色でも、良いんじゃないか?」
「うん・・・。」
一緒に会計の列に並びに、たまごっちを買ってもらった。
青色だけど。
希望の色ではなかったけどようやく欲しかったたまごっちが手に入って、すごくすごく嬉しかった。
当時、右を向いても、左を向いてもたまごっち。なっちゃんも、ひなちゃんも。皆んなたまごっちを持っていて。放課後に皆んなのたまごっちで遊ばせてもらって、心から羨ましくなっていた。
小さな手のひらに乗る育成ゲームは、当時はとても画期的でめずらしく、光輝く宝物みたいに見えていた。
「小学校にたまごっちを持ってきてはいけない」というお達しがあったので
小学校にいる間は、母にたまごっちの面倒をみてもらっていた。
母も最初のうちは物珍しいのか一所懸命お世話をしてくれていたが、1週間ほどでお世話が放置気味となり、すぐにたまごっちにお墓マークが出るようになった。
私も夢中になっていたのは、1カ月くらいの間で、やはり使わなくなってからは引き出しの奥にしまいこんでしまっていたけれど・・。お父さん、ごめん。
たまごっちが大流行した当時、
2つ上の兄は、生粋のゲーマーになっていた。
スーパーファミコンが発売された年、兄は小学校低学年。ゲームに魅せられた兄は、スーファミを持っているお友達の家に入り浸りになった。
本当は兄にゲームを買い与えたくなかった両親もとうとう折れて、兄にスーファミを買い与えていた。両親の心配していた通りに、クラブのサッカーに行く以外はゲームに熱中していた兄。
だけど、兄に教わりながらゲームをするのが、私はとても好きだった。マリオの上手い走らせ方も、マリオカートの最短距離を行くコーナリングも、昇龍拳の出し方も、全て兄から教わった。
幼かったとき、私はお兄ちゃん子だった。
小学校で兄を廊下で見つけると
「お兄ちゃーーーーーーーん!!!」
と大声で呼び
「おう!」
っておどけて手を上げてくれるのが、すごく嬉しかった。
そんなお調子者でゲーマーだった兄に
どうひっくり返っても、どのゲームも兄には勝てなかったけど、一緒にコントローラーを握って、夕食になかなか食卓に出てこず怒られるまでゲームをしたこと。
マリオカートを何戦やっても全然勝てなくて、いつも終わりの方は「つまらない!」と泣きながらコントローラを放っぽり出したこと。
私が10歳の頃、兄はMOTHER2に夢中になっていた。後にMOTHERシリーズは糸井重里氏が手掛けたゲームだと知ることになるが、もちろんこのときは、なんにも知らない。
レトロで可愛いドット絵のキャラクターが、テレポーテーションで真っ黒こげになったり、仲間をどんどん見つけたり、どせいさんと出会ったりするのを見ているのが、ひたすらに楽しかった。
私はそういったロールプレイングゲームも苦手だったので、ゲームを見てあれこれワイワイ言いながら
後ろで、兄のプラモデルを作っていた。
父が、手先がおそろしく不器用な兄のためにと買ってきた、お城や戦車などのプラモデル。
小学校高学年でも、やや難解ではないかと思われる細かなパーツが多いものだった。
もちろん、兄はそのプラモデルの箱を開くことはなく放置して、本棚の上でホコリを被っていた。
それを、「これ、ちょーだい」と兄から失敬し、私が代わりに組み立てていた。
大好きなゲームに勤しむ兄の横で
私はプラモデルのバリ取りをニッパーで丁寧に施し、名古屋城や大きな戦車などを一心不乱に組み立てるのが好きだった。
パーツが多すぎるプラモデルの場合は、最初に全て切り離すとどれがどのパーツか分からなくなってしまうから。説明書に書いてある順番で少しずつパーツを切り離して、順序通りに組み立てていくということも、作るうちになんとなく覚えていった。
着色する道具などは買ってもらえなかったが、それでも美しく仕上がったプラモデルが本棚に並んでいくのを見ると、とても満足していた。
「お腹のなかで、性別を間違えちゃったのかね」
というのは、母のお決まりのセリフだった。
兄はゲーマー故にインドア派な性格で
私はズボンが破けるまで木登りに勤しみ、プラモデルを組み立てていた。
そんな、10歳の頃。
私の団地には、大好きなノラ猫がいた。
名前を、ミケランジェロと名付けていた。
当時好きだったアニメのミュータントタートルズのメンバーから、名前はもらっていた。
明るい黄色の毛並みが美しい、人懐っこい猫。とても人に慣れていたから、飼い猫だったのか、あるいは団地内の誰かが餌付けしていかのかもしれない。
私に気付くと必ず足にすり寄ってきてくれて、ゴロゴロと喉を鳴らしてくれる。
猫が何を食べるのかわからなくてエサをあげることはなかったけど、それでもなついてくれているのが、ただ嬉しかった。
うちは、お父さんが犬・猫アレルギーだから猫は飼いたくても、飼えなかった。
それでも、「ミケランジェロを飼いたい」と父に交渉してみたら
「うちには、ゴン太がいるだろう」と。
確か私が1年生くらいのときに、祭りの縁日で取れた金魚。
今ではもう水槽のサイズに近いくらいに大きくなって、少し水槽が窮屈そうだった。
それでも、どうしても家で可愛いミケランジェロを飼ってみたかった。
悩んでいた私はある日、素晴らしいアイディアを思い付いた!
家の下で遊んでいるミケランジェロを確認してから、私は急いで1リットル入り牛乳パックを持って階段を駆け下りた。「ミケランジェロ!」と階段の下で呼ぶと、トコトコと近づいてきてくれる。
抱っこするのは少し怖いから、牛乳をザブザブと階段に撒きながら、ミケランジェロを5階まで連れてくる作戦なのだ。
見事に作戦は大成功で、ミケランジェロは階段に怖がりながらもミルクをチロチロと飲みながら、ちゃんと5階まで連いてきてくれた。
さらにザブザブとミルクを家の中にも撒いて、押入れまで誘導した。
押入れにミケランジェロを無事に入れて、私は大きな満足感に浸っていた。
やった!!!ミケランジェロをこれで内緒でこっそり飼える!!!
押入れの中なら、お父さんのアレルギーもきっと大丈夫だろう。
可愛いミケランジェロとの生活が始まったことで、目の前がきらきらと輝いているような気持ちになっていると・・
玄関が、ガチャ!っと開く音。
母がお買い物から帰って来た、と思ったら突如としてなにやら怒鳴り声も飛び込んできた。
お買い物袋を乱暴に地面に置いた音が、する。
階段の始めから続く不可思議な牛乳が家の中まで絶えることなく続いて、私の目の前でぴたりと止まっている。
犯人は、名乗り出なくても一目瞭然だろう。
押入れの前で母の怒鳴り声にビックリして固まっていた私に、大きなゲンコをくれた母は押入れをピシャリと開け、ミケランジェロを見つめしばし呆然としていた。
「早く帰してきなさい!!!」
せっかく、押入れまで連れて来れたのに。
初めて、猫が飼えるのに。
こんなに、可愛いのに。
希望でいっぱいだった心は、すぐに真っ暗になってしまった。
泣きながら玄関を開けると、ミケランジェロは一目散に階段を下っていってしまった。
母から言われて、階段に撒き散らした牛乳は、泣きながら雑巾で拭いて回った。母も、牛乳を雑巾で拭くのを手伝ってくれた。
ようやく拭き終わっても、牛乳の異様な匂いは階段にしっかりと残ったままで、その棟の一件一件に「ごめんなさい」を言いに回った。
まだ半分泣きべそだった私に、やっぱり母は一緒についてきてくれて、一緒に謝ってくれていた。
しばらくは、家の中も牛乳臭いままだった。
* * * * *
あんまり頭が良くない、猪突猛進型だった10歳のときのお話でした。考えなしに思い付いたままにどんどん動くから、先生からも両親からもよく叱られていました。
ちなみに、今、一番組み立てたい憧れのプラモデルは蒸気機関車のC62です。
今回のこぼりさん主催の3000文字チャレンジは、なんと私がお題を考えさせて頂いたので!嬉しいような恥ずかしいような・・・(*’ω’*)
ちょっと、プレッシャーも感じつつw
でも、楽しみながら書いてみました♪
では♪
本日もお付き合い頂いて
ありがとうございます(*^^)v