私の目は、祖母からもらったものだ。
母も、祖母と同じ目。
子どもたちも、骨格や顔の作りは旦那さんに似ているけれど祖母とおんなじ目をしている。
8月の頭に、茨城に住む祖母が老衰で亡くなった。
「ほとんどコロナウイルスの感染者が出ていない地域だから、葬式には来ないでほしい」と祖母と住んでいた叔母から連絡があった。
したがって、母も祖母(つまり母にとってのお母さん)の葬式や通夜などに参列することは叶わなかった。
母とテレビ電話をして「さびしいね。いきなりすぎるね。コロナはなんて悲しい病気なんだろうね…」と、そんなことをぽつぽつと言い合うくらいしかできなかった。
今年の10月に、祖母に会いに行く約束をしていた。
「早くおいでね。待ってるからね」
祖母と電話をしたのは、もう今年の頭だったのかもしれない。祖母は、女の子の初ひ孫に会えることを楽しみにしてくれていた。コロナが流行る前の約束だったから、それがその時期に叶うかはわからなかったけれど、約束していた。
祖母は、祖父と自宅で日本舞踊の先生をしていた。
2人が舞台を踏んだ写真は、祖父母の家のリビングにぎっしりと飾られている。60歳を過ぎてもプレイボーイだった祖父は、よく生徒さんにちょっかいを出していた。たしかに祖父は、60歳を超えてもキリリと整った横顔をしていた。若い生徒さんからも人気があったらしい。
祖母は、そんなプレイボーイな祖父一筋だった。
私が高校生のころ、祖母が1カ月くらい埼玉のこちらの家に泊まりに来ていたことがある。
「おじいちゃんがオイタをしたからだ」と聞かされていた。
「おじいちゃんから連絡してくるまで、帰らない!」と祖母はめずらしく怒っていた。
私は当時のセーラー服を着て、学校終わりに美味しいパスタ屋さんで母と祖母と一緒に写っている写真がある。一緒に私が通う高校を見に行ったり「銀座を歩いてみたい」という祖母と都内を一緒に歩いたりもした。
ようやく頑固な祖父が電話を寄越したのが、1カ月ほど経ってからだったのだと思う。
日本舞踊を祖父母から初めて教わったのは、確か10歳のころ。鮮やかな桃色の美しい扇子を、祖母は用意してくれていた。
思えばあんなに嬉しそうだった祖父母の姿は、あのときが一番だったかもしれない。
目線や指先まで気を配ること。
静かな足の運びや踊りでの首の傾げ方。
祖父母からいろんなことを教わった10歳のころ。
あの綺麗な桃色の扇子。
なぜ、大切にとっておかなかったんだろう。
どれだけ目を酷使しても、私の視力は1.0から下がることはなかった。
10代のころは兄に倣ってゲーマーで、夜暗いなかで寝付くまでスマホを見ていたこともある。ライター仕事が始まってパソコンの徹夜仕事をしていても、やはり視力が落ちることなかった。
「物を見る力が強いのね」
目をいつか誰かに見てもらったときに、言われた言葉。この目は水分量がとても多くて、薄暗がりだと光る(らしい。)
この強い目は、祖母が守ってくれているんだと、最近そんなことを強く思う。
裸の目で見える世界は、今日も驚くくらいに美しい。
「ねぇ、おばあちゃんにも見えてる?」
美しい景色を見て、心の中でおばあちゃんに声をかけると、涙で世界がぼやける。
私じゃなくておばあちゃんが泣いてるのかな、とそんなことも思う。
「よく来たね。たあんとお食べ」
くりっとした目で笑う祖母が浮かぶ。
来年こそ、茨城の大洗の海に家族そろって行こう。「遅くなって本当にごめんね」って、謝りに行こう。