【注*この記事は、ハサミ男のネタバレを含みます】
ミステリー小説を読んだのは、恐らく1年ぶりだったと思う。
出産後からバタバタとしていて、とても小説を読める時間が無かった。と、言ったら大袈裟だ。
ただ単に、私の心に余裕が無かっただけのことだ。
500ページを超えるミステリーを読むのは、始めの方はなぜか少しだけ勇気が要る。
本当に、読み切れるのか?
途中で読まなくなってしまったら・・?
始めの方は、ゆるゆるとスキマ時間を見つけては細切れに読む。
いつも通りのミステリーの読み方だ。
世界がつかめるまで、なかなかその中に入り込めないでいる。細切れに読むものだから、ストーリーも理解しづらい。
しかし、ちょうど物語が中盤に差し掛かったところから、小説を閉じることができなくなった。これも、いつも通りと言えばいつも通り。
始め、細切れに読んでいたためか、理解不足で「ハサミ男」が別にいるんだと思っていた。
冒頭から出てくる女性は、ハサミ男に憧れを抱いている女性なのかな?と。
きっと女性は、真のハサミ男と対決するときが来る。
そして、序盤から登場する「医師」は、彼女が通院しているメンタルクリニックの医師なのだと思い込んでいた。
そんな、大きな勘違いをしたまま読み進めてしまっていた。
だから、女性が「真のハサミ男」なのだとようやく気付き
「医師」が彼女の中にあるもう1つの人格なのだとようやく気付いたときには、物語は急転してしまっていた。
ミステリー小説を読んだ後というのは、全ての謎や事件が終焉を迎えいくらかすっきりとした気持ちになることが多い。
なるほど、あの伏線はここで回収されたのかとか
犯人が全然思ってもみない人だったとか。
しかし、このハサミ男のラストはどうだろう。
次のページを含ませるような、ラストシーン。
男性警官との恋の行方はどうなるのか、多重人格をさとられたときにどうなってしまうのか、あるいは彼女が「ハサミ男」だともし気付いてしまったなら・・・ラストシーンに出てきた少女は・・・?
500ページを超える物語の中でほんの半ページにも満たない、父親の面会。母親と彼女に確執があることはわかったが、その中のドラマには一切触れさせていない。そこに、彼女の中に人格がもう1人いる理由があるのだろう。
ここまでクエスチョンが残る小説は、読んだことがなかった。
刑事たちが口を揃えて美人だと話すが、彼女自身は「太った女」だと自身を自覚している。彼女は、摂食障害も患っているのだろうか?あるいは・・・
このストーリーの続きを、読みたい。
こんなにも心から強く思ったことは、こういったミステリー小説を読んできた中でも初めてだった。
そして、この小説を読み終わり感じたことは、なんと多重人格障害者の特徴を捉えているのだろうということだった。
私は脳外科の後、長く精神科で働いていた。
閉鎖病院と呼ばれる、患者さんが自身の意思では外に出ることができない病棟。つまり、精神科の中でも重症患者さんが入院される病棟で勤務していた。
患者さんの多くは統合失調症・鬱病などが占め、あとの患者さんは境界性パーソナリティ―障害・摂食障害・アルコールや薬物依存症などの疾病を抱えている。
暗いイメージを持たれがちだが
精神科の患者さん達は、皆とてもユニークだ。
きらきらとした曇りのない眼差しは子どものそれとおんなじだ、と心の中で思ったこともある。これは、統合失調症の患者さんが多かったためだろう。
病院内では四季折々の行事ごともあり、全員参加で文化祭のように楽しんでいた。
「ねぇ、これ見て―!!」
と、夜勤中の2時頃に自作の小説を持ってきてくれた患者さんも。
小学校のようだ、と感じたこともある。
中には、人生の大半を閉鎖病棟の中で過ごしている人もおり、他の科と比較して患者さんの入院期間は長くなる傾向がある。
だから、記憶力が悪い私でも、多くの入院患者さんの顔や名前・特徴やクセなどをよく覚えている。
私が精神科で勤務していた中で、解離性同一症(多重人格障害の現在の呼び名)の患者さんは本当にごくごく一握りだったと記憶している。
解離性同一症の患者さんの場合には、まとっている空気が他の患者さんのそれと違うと感じていた。
もちろん、私が受け持った患者さんは解離性同一症の人達の中のほんの一握りだろう。
しかし、小説の中に出てくる多重人格の女性は、自然とあの頃に受け持っていた多重人格の患者さんに重なる部分があった。
ある種、独特の空気というのか。
こちらが発する声が、するりと後ろへ通り抜けて
その患者さんが持つ世界は、遙か遠く、踏み入れられないと感じさせられたこともある。これはおそらく、症状が重度の解離性同一症の患者さんを受け持ったためだろう。
自殺企図が頻繁にあり、目が離せなかったこともよく覚えている。
小児期に心に深い深い傷を負った人が解離性同一症にかかりやすい傾向があり、それを理解したうえで看護に関わっていく必要がある。小説内でも、それはとても小さく触れられている。
看護の基本は
受容・共感・傾聴の三原則とされているが
精神科の場合はその限りではないと、働いていて感じることも多かった。
なぜなら、傾聴や共感だけでは信頼に繋がらないケースもあったためだ。
これは実感として感じたことだが
精神科の患者さんの中には、叱咤激励を望む人も多い。
繰り返しリストカット・無謀な拒食過食をすれば本気になって怒り(これは患者さんによりけりだが)、頑張る姿勢の時には思い切り背中を押す。
これは、家族と疎遠になってしまった大人の患者さんが多いためだからだと感じていた。
「家族」を心のなかで強く求める人が、多かった。
だから、精神科の看護師は根っこのところは看護師でありながら、病棟内では時に叱咤する母になり、相談相手の姉になり、共に喜ぶ妹になり、友人にも道化にもなり得る。(これは、あくまで私自身の看護観だ)
もちろん、心の中で「患者と看護師」という太いラインは引いておく必要がある。
たまに冗談を言って笑ってもらうことで
フィルターを通さない嘘偽りのない、心からの言葉を投げることで
固く閉ざされた蓋は、気が付けば、そっと開いているときもある。
そこには、共感や傾聴だけではないやり取りがたくさんあったように思う。
しかし、解離性同一症患者の看護では、叱咤激励などを要さないと感じていた。
受容・共感・傾聴。
お約束の三原則。
患者さんが持つその世界全てをこちらがまるごと受け入れ、心から安心して、休んでもらうこと。症状が急性期であればあるほど、それが最優先事項になる。
言葉が届きづらいため入り込みづらく、根っこの部分の改善は見込めなかったケースもある。
つまり、とても完治しづらい病気なのだ、と。
精神科のことを話すときに
人によって症状・回復過程は、千差万別だということを付け加えておきたい。
それは、出産や育児とおんなじだ。
幻聴・幻覚に悩む統合失調症の患者さんが数週間で退院し、元気に社会復帰しスーツを着て病院へ顔を見せてくれたケースもあった。
笑顔が、うれしかった。
症状がほとんど無くなったとしても、人から理解されづらく悩む人も多い。
そして、精神科看護をやって思うことは、人の気持ちを根っこまで理解することは本当に難しいということ。
それは、精神科の患者さんに限らずだけれど。
だけど、理解が難しい場合でも、言葉が上手くなくても
心に寄り添いたいと心から思う気持ちや眼差しは、患者さんにとって薬以上の精神安定剤になることもあり得る。
本の感想についての記事のはずが
精神科で働いていたときの看護研究になってしまった。
自分のブログだから、まぁよいかと思うことにする。
ハサミ男の感想を楽しみ来て下さった方だけでなく
精神科のことをあんまり知らない人も
実際に精神疾患に現在悩まれている人も
もしかしたら、今働いている精神科ナースの方達も。
長い記事を読んで頂き、ありがとうございました(*’▽’)
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